隨應寺縁起

 当山の縁起を尋ねると、聞基は善甫、俗性は宮内少輔藤原善定と記されている。

 弘門に入る前の善定は、京都の御奈良院にて、詩歌管絃をもって仕えていた。

 十八歳の時(1500年中期第十一代、顕如上人の時)大内義隆に乞われて山口に来赴賓客として過せられ、詩歌管絃の指導をその職として仕えていた。

大内家滅亡後(1551年)山口の瑠璃光寺(曹洞宗)にて削髪、法名を善林とし、関東の地に赴き修業とともに伝道教化を行なった。

 四十五歳の頃、法名を善甫と改め、再び山口の地に帰り、天正元年(1573年)美祢群伊佐村平林(現、徳定)に小庵を建立、寺号を「平林由随応寺」とした。

数年して再び上洛、本上洛中に「南無阿弥陀仏」のご本願に出会い、浄土真宗へ帰依、改宗し、本願寺派の流れをくむ身となった。(本寺 大嶺町正隆寺)聞基 善甫 元和二年十月十七日(1616年)還化 現在の寺号への変更不詳

 

当山は住職代務時代(無住)があったため記録等散失、分かりしことのみ列挙する。


 五世 受教 中野村蓮光寺より養子縁組入院、本堂再建鐘楼改築

 六世 恵股 養子縁組入院

 七世 徳玄 嘉万村明覚寺より養子縁組入院

 十世 学道 本堂大修復、仏具等揃え御堂整う

十三世 五登 西教寺より養子縁組入院、庫裏再建(明治4年)


後は後継者なく、宝泉寺園然法師が住職代務をされる。

二十二年間の代務時代を経て明治三十年二月、明正寺(吉城郡嘉万村)より通玄次男 隆江、当山第十四世住職(坊守 ツタ)として入院。

代務時代は終わるもその間無住であったため寺院荒廃、明治32年、第十四世の入院を勝縁として本堂再建に着手、翌明治33年完成、御正忌報恩講に合わせ入仏供養を厳修する。

門信徒は少なく、経済的にも恵まれなかった当時の門信徒の方々の並々ならぬ御懇念がありがたく偲ばれる。


明治32年に建立された御堂も、八十有余年の風雪に耐えてきたが、次第に雨漏りがひどくなり、昭和58年屋根葺き替えをする。続いて昭和62年庫裏改築(125年経過)と門信徒の方々へ多大な御懇念をいただき、今日の随応寺となる。

現在は第十七世住職まで法灯が継職されている。