阿弥陀様の親心

  私事で恐縮ですが、今年の3月に第一子が産まれました。息子が産まれてもう6ヶ月になります。私はついこないだまでは子供という立場でしかなく、「親の心子知らず」と言われるように自分の好きな事を自分勝手にし、まず一番大事なのが自分であり親が自分をどう思ってくれているだとかあまり考えたことはありませんでした。この度、親となり初めて我が子を抱いて感じたことは「この子はなにがあっても自分が護ってあげなきゃ」という思いでした。 もうすぐ6ヶ月になりますが毎日、我が子に向かって「お父さんだよー!!お父さんだよー」と呼びかけます。まだまだいくら呼びかけても何も反応がありませんが気がついたら自然と呼びかけてしまっています。いつか私の「お父さんだよー!お父さんだよー!」の呼びかけに応えてくれる日が来るのかなと思うと楽しみです。よく阿弥陀さまは親さまと呼ばれます。親が子にむけるまなざしが阿弥陀様のお心によく似ているからでしょう。私たちが生まれてからずーと私達の傍にいてくださり、私たちのことを「可愛い可愛い」と思ってくれて、「なにがあってもこの子を護りたい、救いたい」と思っていてくださる阿弥陀さま。子供がまだ何も分からなくても「お父さんだよー」と呼びかけずにはおれない私のように阿弥陀様も私たちに向けて「私が阿弥陀仏ですよ。あなたを必ず護ります。救います。私が阿弥陀仏ですよ。」と南無阿弥陀仏というお名号となって呼んでくださっておられるのです。原口針水和上が「われとなえ われ聞くなれど南無阿弥陀仏 つれてゆくぞの親のよび声」と言われるように私たちの口から出てくる南無阿弥陀仏のお言葉ですが、その南無阿弥陀仏には阿弥陀さまの必ずつれてゆくぞというお呼び声が至り届いて私たちの口からこぼれおちてくるのであります。 いつか自分の呼びかけに気づいて、子供が名前をよんでくれる日を阿弥陀さまも待っておられることでしょう。 南無阿弥陀仏。  

前に生れんものは後を導き…

私が法務員としてお世話になっているお寺では、毎月のご命日にお参りをする月忌参りというのがあります。先日そのお寺の仏教婦人会の幹事をつとめられましたお婆ちゃんがご往生されました。私はそのお寺に勤めて8年になるのですが、そのお婆ちゃんは毎月私がお参りに伺うと、必ず首に仏教婦人会の式章をかけ、手には自分のお経本と念珠を持って玄関でお出迎えしてくださり、また私の後ろに座って一緒にお経を読んでくださり、終わると「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とお念仏を喜んでおられたお婆ちゃんでした。

 

お葬儀が終わり、私の元に若奥さんがご挨拶に来て下さって、「今まで本当に有難うございました。母は毎月お寺さんが来られるのを楽しみにしていました。」と言ってくださいました。その言葉だけで充分嬉しかったのですが、もっと嬉しかったのが、「私は今まで、仕事や家事なんかでなかなかお寺さんとのご縁に会えませんでしたが、これからは私も母の姿を見習っていきたいと思います。これから宜しくお願いします。」と言ってくださいました。

 

親鸞聖人は『教行信証』後序の終わりに道綽禅師のお言葉を引用されて「前に生れんものは後を導き、後に生れんひとは前を訪へ、連続無窮にして、願はくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽さんがためのゆゑなり」とあります。『前に生れんもの』とは浄土に先に生れる者のことでしょう。先に浄土に往生する者は後を導き、後から浄土に往生しようとする者は、先立った方のみ跡を慕い、前に浄土に往生した者のお導きによって、お念仏の灯が脈々と受け継がれていくことの大切さを教えて下さっておられます。

 

今、若い奥さんがご往生されたお婆ちゃんのお導きを頂き、これからお念仏を喜ばれたいという思いになられたことがとても嬉しく思います。

 

これから始まる毎月のご縁の中で「お婆ちゃんのおかげでお念仏申す身になれました。またお浄土で会いましょうね」と思って頂けたら嬉しい限りです。

 

南無阿弥陀仏

 

白骨の御文章

先日インターネットで日本の平均寿命を調べてみましたら2010年調べで男性が79.64歳、女性はなんと86.39歳とありました。すごく高いことに驚きました。

 

医学の進歩によりほとんどの病気が早期発見、早期治療によって治すことが出来るようになったのが理由かと思います。

 

しかし、よく考えてみますと、皆がみな長生きをするとは限りません。まだ今の医学では治せない病気もあることも事実であります。また、突然の交通事故や、忘れることの出来ない昨年の3月11日の東北の大地震、ニュースなどを観ていましても毎日のように悲しい事件が多く起きております。

 

以前、私の高校時代の野球部の恩師のお葬式に参列させて頂いたときのことであります。

 

私は席につき、何度も『南無阿弥陀仏…南無阿弥陀仏…』と言い合掌していましたら、友人はすごくビックリした表情をしてこちらをみていました。その友人は『まだお焼香でもないのに突然どうしたんだろう』と思ったそうです。

 

私はお寺の住職としてご門徒のお葬儀をさせて頂きます。お葬儀では『白骨の御文章』を拝読させて頂くのですが、白骨の御文章の『われや先人や先、今日ともしらず明日ともしらず』という箇所になるといつも『自分も、いつどうなるか分からないなぁ』と思います。

 

そして最後に『人間のはかなきことは、老少不定のさかいなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏申すべきものなり』とあります。

 

私たちが普段、当たり前のようにして迎えるこの1日、なにげなく迎えたこの1日は当たり前ではなかったのだということを拝読しながら感じさせて頂きます。

 

お葬儀をさせて頂きながら思うことは、亡き方がこうして私にご縁をつくってくださり、私に「いいか、後生の一大事だぞ。阿弥陀様を信じおまかせし、日々いつでもどこでもお念仏もうせよ」とお浄土より教えてくださっているように思います。

 

南無阿弥陀仏。